柿沼康二語録
日本経済新聞WEB版「柿沼康二のダイレクトメッセージ」の連載など、数多くの寄稿やコラムで「独自の思想」や「書」の魅力について語る書家 柿沼康二。「書はアートたるか、己はアーティストたるか」の命題に挑戦し続ける柿沼だからこそ見えるものがある。本語録は、柿沼康二が日常的に綴るエッセー・コラムなどから厳選した「熱い言葉」の断片を紹介しています。
日本経済新聞WEB版「柿沼康二のダイレクトメッセージ」の連載など、数多くの寄稿やコラムで「独自の思想」や「書」の魅力について語る書家 柿沼康二。「書はアートたるか、己はアーティストたるか」の命題に挑戦し続ける柿沼だからこそ見えるものがある。本語録は、柿沼康二が日常的に綴るエッセー・コラムなどから厳選した「熱い言葉」の断片を紹介しています。
日本経済新聞WEB版・コラム連載(全12回・2012年11月~2013年6月)
WEB版・日本経済新聞にて柿沼康二が「書」の魅力について熱い言葉で語るコラム全12回。「書」とはどういう芸術か、書と習字、書と文字との違い、書の鑑賞法、その面白さ、難しさ、書が持つ誤解などなど、柿沼康二というフィルターを通して見えてくる現代書論。
美しいものは自然。
自然なものは美しい。
新しくて古いもの
古くて新しいもの
温故知新
温新知古
滅多に出くわさないが、そんな世界を感じさせてくれるものを見つけた時に幸せを感じる
上品なアヴァンギャルドとはそういうもの
ただ暴れただけじゃ、前衛でもなんでもない。
そんなものには直ぐに飽きがくる。
暴れても上品でないと切なくない。
上品で聖なる前衛でないとつまらん。
良い作家、良い作品がその時代に受け入れられるのは非常に稀なことだ。
アーティストは、死ぬまで受け入れられなくても構わないという覚悟が必要。
簡単に世に受け入れられる方が気持ちが悪い。受けたら徹底的に疑うこと!
大切なのは、時代の篩から落とされることなく現在まで伝承され続けてきた古典や歴史を徹底的に学ぶこと。そして今を自分らしく生きること。これアートの大切なキーである。
「絵画と比較すると、書は直ぐにできてしまうから、価値が低い」。過去、海外においてそう言われ悔しい思いをした。しかし、今では「柿沼の書は、単なる書でも絵でもない。新しいアートだ。グレートだ」と言われるようになった。書のようで書でもなく、絵のようで絵でもない。一切の迷いと妥協を許さず、計算と洗練の果てに生み出されるその一瞬には私の命が燃焼し爆発する。そこに日本文化芸術全体を理解する上で不可欠な時間感覚と大和魂が存在するのだ。「永遠の刹那」、米国で「Eternal Now-エターナル・ナウ」と私のアートに対して名付けられた所以だ。 「永遠の刹那」、それは、「書」のみならず日本文化全てに内在される神秘性、そして奥義であると確信を得たことが、この一年の大きな収穫であった。この超然とした時間感覚と気合、集中力の中に海外の人たちは、日本人独特の精神や歴史を見るのだ。そして1アーティストとして存在し、1アートとして成立させるために必要とされるのは、それらを自分独自の新たな方法論で表現しなければならないこと。どこかの誰かの真似では意味がないということだ。だから過去の先人達のお手本をゴミ箱に捨てるか、書の歴史に中指を立てるくらい覚悟が必要となろう。
歴史の咀嚼は勿論、それを踏まえた上で、現在、何百何千年の未来をも踏まえた仮説を立て、自分独自のストーリーを作り上げること。その物語を西欧人に時間をかけて丁寧に説明していくことが大切。
孤独
それが作家です。
人間の本来の姿です。
真の作家とは、他人を意識した活動ではなく、孤独でしかない自分を自覚した表現であるべき。
それは一種の笑いのようにポジティブであるべき。
説教とか議論とかの間逆の。
アートは信仰でしかない.
芸術とは、本来自分一人でやるもの。
バンドであってもオーケストラであっても、
個々それぞれの孤独が相まって全体の作品を作り出す。
自分の腹から出たがっている感情と真っ向勝負することが制作でありアーティストの仕事だ。
その行為が、個性となり作品となる。孤独と向き合ってなんぼ、それに最後の最後まで耐えられか。それが才能だろう。
何事も“丁度いい”ってのが最も危険。
そこからは問題意識は生まれないから。
何という言葉、文字を表面上書いていようとも、心の中ではこう叫びながら書いている気がする。
“今、今、今、俺、俺、俺、馬鹿野郎、馬鹿野郎、馬鹿野郎”
作品観て、思わず笑っちゃうようなのを創りたい。
できれば笑い泣きしちゃうくらいのもの。
「もし明日がなかったら…」
いつもそういう気持ちでいる。
作品は遺言だから。
尊敬と対決という目まぐるしいパラドックス。
そこに私の求め続ける「上品なアバンギャルド」という姿が潜んでいる。
世の中に何者にも誰様にも影響されていない完全なるオリジナルなんてない。書や文字ともなると殊更、誰かの模倣の誰かのスタイルをパクったという類の話が尽きない。
指摘されなければOKというスケベイなその感覚が何よりも醜い。ビギナーでもあるまいし、お里がバレバレ、お師匠さんのそっくり文字を発表して賞もらって喜んでいる書道の世界、職業書家さんにつける薬はなかなか無いようだ。
準備が全て。 目の前の一つの目的に対してだけでは真の準備とは言わない。
日頃から小さな心がけ、拘り、意識…
日常が準備。そして大切ということ。
「君みたいに本音だけで生きて行ける人ばっかりじゃなんだよ」
そう言ったあなたの負け。
ティーチャーとアーティストは全く違う。感覚的にはわかっているようだが根本的にわかっちゃいない。書道の先生たちは、まるで自分のことでは無いかのように「そうだよね」と。
書道側の勝ち組でいたければそれでいいのかもしれないが、このことにいち早く気づいたたらアート側の勝ち組。
この歳になって初めて評価されることが結構たくさんある。
なんで今になって理解されるのかが不思議。
今になって新しいことを言っていることはほとんどない。
10年も20年も前から同じことを言っているのになー。
ズレて他人を幸せにするのがアート。
ズレて他人を不愉快にするのがエゴ。思い上がり。
強引なくらいのやり方しないと新しいものなんか生まれるはずない。
強引どころかランボーくらいじゃないとね!
小学校から高校まで真剣にサッカーをしてきた。
PK戦5人目のキッカーでシュートを外し大切な試合を逃した。そのあたりからチームプレイが嫌いになった。そして一人でできるランニングを選んだ。
自分にとって作品は分身。または自分の子供。
だからどんな方にどう取り扱って頂くかによっては大きく育つし、限りある自分の寿命より長く生きられる。
名前を聞いて作品のイメージが出てこない書家がほとんど。
音楽などの場合、楽曲があって名前が出てくる。または生き様と楽曲が相まって有名になっている。
作品はラブレター。
宛先は不明。
タイミングをずらす。 きっとこうくる、普通はこうでしょ、というリズムや拍子を何事もなかったかのように自然にずらす。
良い書、優れた書は全てこんな風にどこかがずれているんです。
だから観る人は気持ちを揺さぶられ、惑わされ、魅了される。
作品をタダであげてしまう人は自分の作品の価値は0円ですと言っているのと同じ。
作品をもとに生きているアーティストが命がけで創った作品をただであげたりしない。また、そんなことはできない。
見せよう見せよう、見せたい見せたい、褒められたい褒められたい、、、
そうゆう人の作品はそういう欲がどうしても作品に出てくる。
美というものは、命というものはもっともっと深いところから滲みでるものだ。
世の中に何者にも誰様にも影響されていない完全なるオリジナルなんてない。書や文字ともなると殊更で、誰かの模倣の誰かのスタイルをパクったという類の話が尽きない。
指摘されなければOKというスケベなその感覚が何よりも醜い。ビギナーでもあるまいし、お里がバレバレでお師匠さんのそっくり文字を発表して賞もらって喜んでいる書道の世界、盗人書家さんにつける薬はなかなか開発されないようだ。
興奮:冷静、8:2~9:1
テンションを制作直前まで100%、時に120%、ガンガンばっちり上げ、そして、直前に少し落とす。自称「馬鹿走り」という10キロのランニング、途中300m坂道ダッシュ1回、200mの坂道全力疾走1回、
爆音ロックをヘッドフォンで聴きまくる。
誰も来ないアトリエに篭る。
極力食べ物を胃に入れない。
矢吹ジョーになりきる。
ここまでが100~120に上げる作業。
完璧決まった状態、動物の本能そのもの。
しかし、経験上、この100や120の状態では良い作品は生まれない。
そこには感情、興奮、怒りしかない。
制作対象にもよって10%とか20%とか、テンションを少しだけ落とす。
この微妙な匙加減で出来上がるものが全く違ったものになる。
じゃあ、最初から80%とかまでテンションを上げれば良いのかというとそういうことにはならない。
おちょくる。自分も他人もおちょくる。
世の中に対し中指を立てる。
歴史に最大限の敬意を払う。
信仰
一度半端無く追い込む事、それが私流のアートスタイル、制作前の儀式なのだ。
この比率感覚は、書だけではなく実生活にも関係しているようだ。
近道なんて考えたらダメです。
そういうタイプは書には向いてません。
道具の中で筆が一番大切。
もし文房五宝なら、音楽が五番目にくる。
墨液(既製品)を使う書家の弟子はみんな墨液。墨液で書かれたものは不自然で一目でわかる。
勿論、墨液が本物の墨だと思っている人にはわからない。
「柿沼先生、この作品、何の墨液を使われたのですか?」と聞いてきた人は地方の有名書家だった。
「僕、墨液は使わないんです〜」
答えに困った。
本当の色が偽物
偽物の色が本物
そんな時代になってしまった。
やはり墨は手で摺って粒子を細かく伸ばさないと良い発墨、理想的な伸び方はしない。
絵は多彩な色、音楽には多彩な音質があり、書は墨色一色の世界。
本当に美しい墨色を使わなければ到底それらの芸術に歯が立たない。
作品用と臨書用の墨、濃墨と淡墨用の紙は全く別。墨は大凡50種類、紙は約30種類を表現や気温、湿度によって使い分ける。同じ道具、墨、紙で書いても翌日には全く違う色、滲みになってしまう。
墨は、常に呼吸している。墨は生きている。
書は、一回性の芸術です。
書は、One time Writing。一度スタートしたら後戻りできない、しちゃいけない表現というのが大前提。絵画との大きな違い。
書は音楽的。でも、生の形がそのまま残る音楽はない。
「まず言葉がありき」というのが書のCORE。
言葉を無視する書家、扱う言葉が時代錯誤している書家、 評価されたいが為に言葉が二の次、三の次になっている書家はたくさんいる。
言葉に酔っ払い過ぎの書家も多い。
立体感、貫通力、書か単なる文字かを決める大きなテーマ。
書は格闘技。ろっけんろ~
書は、一瞬のデザイン。
何時間も何週間も付け足しするデザインとは違う。
サッカー、将棋、音楽、ラグビー
ファンや愛好者というのは、そのルールが好きだからそれが好きなんだと思う。
ルールを知り尽くしてルールを美しく打ちくだく。
ルールや常識、歴史の垣根を美しくくぐりぬける。
それが名人。
書はルールだらけ。
こんなルールだらけの表現は稀有。
だから面白い。
俺はルールを破らない。
ルールを遵守しながらも自分らしいダンスがしたいだけ。
筆の穂先と紙の間に繰り広げられる様々な筆触。書におけるその筆触は静的に思われることがほとんどだが、自分にとっては残酷なバイオレンスに近い。
古典を勉強しないと新しさなどでるはずがない。
一過性のブームやファッションにのせられた泡のようなもの。
マンガみたいな字ばかりが蔓延っている。
格調とは出すものじゃなく、体から自然にでてくるもの。
品があるか、俗っぽいかは特に書家じゃなくてもわかる。
品格や伝統、普遍性ってのはいくら暴れまくった作品にでも表れてくる。
書は、古から一人でやるものだ。社中も、団体も書道部もいいが、自分の言葉、自分の表現でなくては、しらずしらずどこか宗教的になっていく。
口で書道してるヤツ、口でROCKしてるヤツみると痛い。反面教師。
音楽、絵画、映画、、、第1級の芸術に比べると書道、書家というイメージが
〇〇すぎて「私は書家です」と胸を張って言えられた試しがない。
法帖三年。一つの法帖(古典・古筆)を学ぶのに三年。たった十年くらい勉強して一流気取り、芸術家気取りでは書の神様、文字の精霊におこがましい。そういう人、ホント痛いなー。
墨のせいじゃなく、紙のせいであることもある。
筆のせいじゃなく、腕のせいであることがほとんど。
一つのフレーズをリフレインして紙に書き連ねる「トランスワーク」は自分独自の手法だ。書なのに絵のようで、しかし絵でもなく、読まなくても何かを伝える「感じる書」の一形態といえる。書と絵画、日本と海外、それらのきわどい接点を表出することがニューアート、書の芸術性、真の世界性を示唆すると信じている。
黒をより黒く、白をより白く書ける事が望ましい。墨は黒、紙は白と思い込んでしまったらそれ以上の面白さは出せない。
余白がリズムを刻む。
書における余白とは何も書かれていない白い空間のこと。
こう言ってしまっては失礼かもしれないが舞台でいう脇役や舞台。
脇役が目立ちたがるような芝居は素人の証。
動かない、語らない、目立たないことに徹底し、主役や全体を引き立て人が、主役やその舞台そのものを喰ってしまうことも大いにある。
書も同じだ。
玄人はそういうところを見逃さない。
鉛筆やペンなどの硬質の突起物でかく線、絵画で言う線と”書線”は全く質が違う。
切ったら血の出るような線、それが書線である。
書の線は有機的でなくてはならない。
「書」と文字や筆文字との違い
説得力がある字は「書」
読めるだけはただの「字」
立体感とは、訴えかけてくるエネルギー
「立体感 」、体が立つと書く
もし、文字を起き上がらせられたら、それは現代アートに違いない
そっと 強く 土臭く オシャレで 格調のある そんな作品が書きたい。
書はシンプル。
しかし、全くもってイージーではない。
ソーディフィカルト。
書家にとって臨書が最後の砦。
作品の良し悪しと臨書力は概して比例する。
臨書で栄養補給しているときのチャンネルと作品制作のチャンネルは全く違う。
吸って吐いての呼吸のように。
臨書から創作に移行する際、完璧に創作モードになるまで3、4日かかる。
理性と感情。
模倣と創作の勘の狭間を行き来する。
書家にとって臨書は呼吸で言う「吸う」作業、創作は「吐く」作業。たくさん吐き出すには思いっきり酸素を吸い込む外ない。一見相反するようなこの二つの作業が渾然と融合し連動し呼吸となって始めて、最高のパフォーマンスを掴むことができる。
「臨書」は、ややもすると没個性的と履き違えられがちであるが、人の顔が皆違うように古筆の書き手と同じものは何一つなく、造形上も精神的にも完全にシンクロすることは永遠にない。
その違いを時をかけて見出し、否定してもしきれないものが己の個性の芽生えとなる。即ち模倣と創造は表裏一体。臨書とは創作であり、模倣とは創造の「ふるさと」。
「書家の醍醐味は臨書にある」と師は言った。
「原本より上手くないと臨書とは言わない、古典は率意の書だから…」 と師は言った。
古典法帖を手本にしながら書家は何百回、何千回も繰り返し模倣する。 原本より上手いというのが臨書の最低条件であるならば、 現代書家の臨書と呼ばれる行為は「臨書」と呼ぶにはお粗末すぎる。
勿論、師の意味した「上手い」ということは技術上の上手さである。 上手さは、書の上等さと比例しないものである。 しかし、清書したでもなくサラッとしたためた率意の書を横に置き、 型や技術すらマスターできない自称書家の字を「書」と言ってしまってはで歴史上の能筆に対して本当におこがましい。
勿論、師の意味した「上手い」ということは技術上の上手さである。 上手さは、書の上等さと比例しないものである。 しかし、清書したでもなくサラッとしたためた率意の書を横に置き、 型や技術すらマスターできない自称書家の字を「書」と言ってしまってはで歴史上の能筆に対して本当におこがましい。
お稽古の前後のお掃除。師匠のお宅にお邪魔して稽古をつけて頂く上で大切な作業である。
途中から来て途中で帰ってしまう人はそれをやらない。
お掃除できないような人は、自分の作品上も制作上にもお掃除の概念がないからきちっと整理されていない。
文字を筆で書くとき、刀を鞘に納めるが如く、何事も無かったかのように筆の穂先が立って終わるのが美しい。
筆の穂先は、運筆の最初から最後まで常に紙を食っていないといけない。穂先が浮いているのは筆を使いこなしていないという事。
型すらマスターできないナンチャッテ書家が 「藝術だ」「アートだ」「個性だ」と騒ぐのは本当にみっともない。
徹底した模倣から、その本物になりきり、本物以上に本物になりきること。 そして本物をも食ってしまうほどの模倣をし、 初めて己という姿が自然と浮かび上がってくる。
「随分昔は臨書をしました」「臨書って何ですか」などと言う書家(?)は、 落書家、もしくは筆文字やってますとでも言えばいい。憧れも無く理想も見えず、上も下も分からず自己陶酔型の御目出度い人間である。
臨書をしていて大切なこと。
聴こえない声を聴く。
聴くための聴覚も鍛えておかないと語りかけてくれている事も聴き取れない。
目に見えない物を観る。形を追うのは初歩的なことだ。
「観音聴心」「古典」は、決して裏切らない。
書の現代性とも絡むことでもある。
臨書にも現代的な臨書とそうでないものとが確実にある。
自分のやっている臨書という行為が能動か受動かだ。
受け身の臨書は習字
主体的なそれは芸術行為となる。
これ、簡単なようで書のあらゆる勉強の中で一番の奥義だと思う。
迷ったら古典に戻れ。
古典が原点
ふるさとのようなもの
これ、書のことだけではない。