2024年09月10日
GO FOR KOGEI 2024「ぶちぬく」 ◾️言葉 心の奥底から溢れだし描きたいと思える言葉や文字との邂逅。 不可逆の「いま・ここ」を吐き出す私の大切なふるさとがそこにある。 言葉は無限、言語という伝達ツールと自分との関係を日々探し求めることは大切な仕事の一つである。 自分を覚醒させるような言葉との出会い。 言葉という素材によって私のギアは大きく変わる。 言葉は生きものだ。
一度、定着したものも、使われ方や時代によって再び命を宿したり、捨てられてしまったり、知っていたはずの言葉が自分の考え方次第で全く違った意味をなす。 言葉との邂逅、その言葉との強い引力、それらを解釈し自分だけの物語を表現する。 言葉に声を投げかけ 水を与え HOPさせ 一緒に踊る 2024年、今年の大きなテーマ「ぶちぬく」。去年2023年のテーマは、「一」「なぜうまれてきたの」。一年をかけてたくさんの作品を制作し、その間に今作「ぶちぬく」の構想が始まる。 考えても考えても「ぶちぬ‘け’」ではなく「ぶちぬく」だった。 もし「ぶちぬけ」だったら途中で飽きてしまったと思う。 ◾️サイズ 幅25M、高2.4M、これまで発表した作品で最大規模の超大作。 40-55cmサイズの紙×270枚。 発表までに間に合うか。 “ぶちぬく”と決めたからにはぶちぬくしかない。 春からスタートし4ヶ月かかった。 金沢21美の「不死鳥」以降、25Mと知っても、ほとんど気にすることがなくなった。 ふーーん、という寝ぼけた感じ。 表現に対するモチベーションが全てである。 デカけりゃいいというものではないし、デカいから伝わるものある。 それだけ。 ◾️“テープワーク” 「なんでテープ?」「自由自在に筆を捌けるのにもったいない」「工事現場の注意書きみたい」「また余計なことをしてる」など、昨今いろいろ言われるが、私は平気だ。 これまでにない新しい事をはじめる人には誤解はつきもの。 筆で書くときは勿論、それ以上に一生懸命言葉を咀嚼し表現している。 テープワークの場合、文字表現の途中途中にテープが使用されているため、書同様に文字を素材にしているのに一般的な書の姿とはまるで違う。 毛筆を音にすると「ウニャウニャ」「スルスル」「スイスイ」「グイグイ」。 毛筆の毛は、非常に細かく柔らかいから曲線や細やかな線、弾力を活かした線、掠れを描くには適している。柔和さや深み、複雑さを感じさせる効果がある。その反面、基本的には直線的な表現にはあまり適していない。そもそも完全なる直線というものは存在しない。 テープは「ピーン」「シュー」「バリ」「ベタ」などなど。 機械でカットされた工業製品だから≒直線。強さ、シンプル、爽やかさを感じさせる効果がある。曲線には全く適していない。 曲線と直線、それぞれの良し悪し、カバーリングしながら文字を再構築したものがテープワークの線活動の基本的原理である。 その特徴を逆手にとって、敢えて曲にテープ、直に筆をぶち込み逆効果を狙うことも大いにある。 ◾️バイブルからの影響 ‘ぶちぬく’、TVや雑誌などメディアのインタビューの編集後にこの言葉を無意識に使っている自分に気づかされた。 人が生きていく道の上には想像もしなかった問題や障害物が大なり小なりあるものだ。自分なりの方法で問題を打破、障害物を突破して生き進む。Breaking Throughそして向こう側、次の世界に辿り着く。そしてそれぞれの‘Emerge’を体感する。 ぶちぬく≒作品 本当の意味で、ぶちぬいたのか、ぶちぬけなかったかは、時間が経たないとわからないのかもしれない。 “ぶちぬく”という覚悟すること 幼少の頃の夢「あしたのジョーの矢吹のようになる」 私の基本的姿勢であり根本的概念を初めて作品化する。 ◾️既視感を感じさせない表現を求めて 筆を握り始めて約半世紀が経とうとしている。途方もない数の書作品、文字表現を目にしてきた。歴史的名品名作から作者不明の怪作や傑作、“先生”と呼ばれる書家の公募展作品、現代アート志望型の非文字作品などなど、、、 昨今では、様々なスタイルがあるが感動がなくなってしまったので古典の探究以外はほぼ情報を遮断してしまっている。 作品を見れば、その人が善しとしている誰かのスタイル、師事している師匠の作風、目指す能書家、墨や筆、使用している画仙紙の質の良し悪し、用筆や執筆法、習気、、、さまざまな物が一瞬で見えてしまう。 どれを見ても既視感(どこかで見た感覚)ばかりで楽しめない。 新しい表現を求めて何十年も足掻いてきた。 少字数、一字書、多字数、現代文体、超大作(作品の巨大化)、トランスワーク、サークルワーク、Untitledワーク(非文字)、、、 筆表現にテープを足すと言う表現をスタートしてかれこれ10年が経つ。これまでの表現とは全く違うスタイルへの挑戦。 それは、単にテープと筆をミックスさせた表面的な工夫や陳腐な発想ではではない。 美、技術、経験、それらを捨てる作業に近い。 ◾️訛りという概念 書を‘訛(ナマリ)’という手法で説明した人はこれまでいない。 (もし、今後、‘書は訛’説を見聞きしたら脚注:柿沼康二を添えて使用するようそのお方にお伝え下さい。笑) いつからか私が好きな、歌手、ダンサー、ギタリスト、言葉、生活、、、 それらを解釈する際の文脈に「訛り」という概念を当てはめてみるようになった。 かつてはそれらのカリスマや天才、超常的な事象に“ザワザワ”、“ドカ〜ン”“ぱー”“立体”“響く”“変態”といった曖昧な言葉を使っていたが、それらの先に「訛」というタームが見え始めた。 いい作品、いい仕事を見ると「これは訛ってて、いいなー」と思う。そして、とてもよく記憶する。 元々は誰もが訛っていたはずなのだが、いつしか‘標準’という概念を意識し、また目指すように育つ。 しかし、標準語なんて実はないのだ。 無いのに目指すという何とも不可思議な営みである。 標準語やらがもしあるのならば今やAI先生が、ありとあらゆる情報から最大公約数的で平べったく、分かりやすて聞き取りやすくて、ちょうど良い調子のスピーチを生成し情報のみを提供してくれる。 そこには感情も感動も表情もない。 標準ほど非芸術なものはない。 標準とアートは真逆である。 標準だったら面白くないのである。 これまで、筆と墨を主軸に創意工夫し表現してきたことのほとんどが書表現上の“自然”というベクトルに向かっていたように今となっては思える。 どこかの誰かの自然は自分の自然にはならない。 自分の自然を見つけ出し、生み出すこと、それが狙い。 不自然、下手、吃り、言葉を噛む、変形、、、総じて“訛”。 25Mの超大作“ぶちぬく” 随分と自分らしく訛った作品になったかと思う。 言語が持つ曖昧で常に流動的で文化に左右され変化し続ける言葉を 自分流のイントネーション、訛りで吐き出す。 書っぽい表現、上手い、いい感じ、きれー、丁度いい感じ、、、 その辺は、もうだれもが実はどこかで見聞きしていて、大体わかっているのだ。 標準や普通を切り捨てていったその先に自分語、自分の表現、自分の居場所、自分の自然、ふるさとのような世界があると信じて毎日考え、手を当てながら創り続けている。BLOG 一覧へ戻る 旧BLOG 「第四話 柿沼康二とKOJI KAKINUMA」